如来蔵
『起信論』と如来蔵思想
『大乗起信論』について
『大乗起信論』の紹介の前に、如来蔵思想系の主な経論をまず列挙してみましょう。
まず如来蔵思想の先駆経典として、『華厳経如来性起品』『法華経』が挙げられます。
そしてこれらによって熟成された如来蔵思想は、『如来蔵経』『不増不減経』『勝鬘経』という
いわゆる「如来蔵三部経」として結実し、インド仏教にその姿を現しました。
次いで『智光明荘厳経』『大般涅槃経』『央掘魔羅経』『無上衣経』『大法鼓経』などが出現し、
これらを「如来蔵思想の第1期」とします。
第2期には『大乗荘厳経論』『摂大乗論釈』『法界無差別論』等、主に論典が著されますが、
とりわけ『仏性論』『宝性論』、特にインド・チベットでは後者が極めて重要な論典として用いられました。
ここまでで、いわゆる「如来蔵思想」の根本的立場が確立・完成するわけです。
そして続く第3期には、如来蔵思想と阿羅耶識(唯識思想)の関係が深く考察されるに至り、
『楞伽経』『密厳経』などが登場するのですが、『大乗起信論』もこの時代に著された論書です。

『大乗起信論』の思想内容は大変に奥深く素晴らしいもので、
大乗仏教の精髄・様々な思想をよくぞここまでコンパクトに記述し、
しかも美しくまとめあげたものかと、感嘆の念を禁じ得ません。
古来、この論書は中国や日本の各宗派・各学派で非常に重んぜられましたし、
仏教のみならず、日本の基幹的思想に陰に陽に影響を与えて来ました。
さて、『大乗起信論』は、
「如来蔵思想を基盤に、大乗の諸教説を総合的に説示したもの」ですが、
古来その思想内容以上に議論の的となったのが「撰述問題」です。
つまり、これはインドで成立した論書なのか、それとも中国で作られたのか…ということです。
結論から言うと、最終的な決着は着いていません(し、恐らく着かないでしょう)。
個人的には、「完成された原典」がインド・西域に存在したかどうかは別にして、
インド人・西域人が中国において口述あるいは論述した書、というのが妥当な線ではないかと思います。
それが「訳者」とされる真諦(パラマールタ)自身であったかどうかはともかく。
いずれにしても、大乗仏教思想を深く理解し、かつ止観実践にも熟達した法師・論師でなくては、
この論を書く事は到底できなかったはずです。
その成立がどこであれ、また誰の論であれ、『起信論』は大乗仏教綱要書の白眉であり、
その教理基準とするに相応しいものであることは間違いありません。
まさに「法界等流の聖教」(竹村『大乗起信論読釈』)の名に相応しい聖典です。
現在、ブログ「大乗仏教主義!」で、『大乗起信論』の本文を順を追って読んでおりますので、
関心を持たれた方はどうぞご覧ください。
【 主な文献案内 】
・宇井伯寿・高崎直道『大乗起信論』(岩波文庫)
・平川彰『大乗起信論』(仏典講座22、大蔵出版)
・竹村牧男『大乗起信論読釈』(山喜房)
・池田魯参『現代語訳大乗起信論』(大蔵出版)
・可藤豊文『瞑想の心理学』(法蔵館)
・久松真一『起信の課題』 (弘文堂書房)
・井筒俊彦『意識の形而上学』(中公文庫)
・高崎直道『「大乗起信論」を読む』(岩波セミナーブックス)
・柏木弘雄『大乗起信論の研究』(春秋社)
・柏木弘雄『大乗とは何か―「大乗起信論」を読む』(春秋社)
このページの文献案内には、大正蔵経・国訳一切経・新国訳大蔵経などは挙げていません。
もちろん如来蔵系経論や大乗起信論、古典的注釈類に関しては各経集に収載されていますので、
原典に関心がある方は直接これらをご覧ください。
如来蔵思想の概要
『起信論』理解の基本として、如来蔵思想の理解は必須です。
如来蔵思想はインド以来、大乗仏教の代表的な思想ではありますが、中観派や唯識派などのように、
特定の学派によって専門的に研究されてきた思想というわけではありません。
如来蔵思想は、『法華経』などに代表される「一乗思想」と同じくインド仏教の中で起こった思想潮流でして、
大乗仏教思想のひとつの典型として、大乗の様々なグループで共有されてものと言えます。
日本では「山川草木悉有仏性」を標榜する天台本覚論が鎌倉仏教に多大な影響を及ぼしましたけれど、
この思想の根底にあるものも如来蔵思想の系統であることは疑えないところです。
もちろん如来蔵思想を曲解した部分もあり、天台本覚思想=如来蔵思想、とは到底言えないのですが…。
また、空海密教における即身成仏思想も、如来蔵思想の展開を無視して論じることは出来ないと思います。

さて「如来蔵」という用語について、法蔵館の『仏教学辞典』には、
「すべての衆生の煩悩の中に覆われ蔵されている、本来清らかな (本性清浄なる)
如来法身のこと。如来蔵は煩悩中にあっても煩悩に汚されることがなく、
本来絶対に清浄で永遠に不変なさとりの本性である」とあります。
まずは穏当な定義ではありますが、如来蔵とは「煩悩の中に覆われ蔵されている、
本来清らかな (本性清浄なる) 如来法身」ですから、
凡夫が凡夫のままで認識できる性質のものではないことは留意しなくてはなりません。
つまり、絶対一元の次元でのみ真に顕現する「何ものか」ですので、
認識レベル・言語レベルでの「定義」は、あくまでも「仮」のものであり、
決して本質そのものを指示してはいない、ということです。
このサイトのトップにも掲げてありますが、「言に因って言を遣る」と言いのが、まさにそれを示しています。
尚、「如来蔵」という漢訳語からは、それを「如来を入れる蔵」というニュアンスが強く感じられると思いますが、
「本来清らかな(本性清浄なる) 如来法身」という定義からすると、少し違和感のある言葉かも知れません。
むしろ「仏性」と言った方がすっきりするでしょう。
事実、岩波『仏教辞典』には「仏性と同じ」と書かれています。
しかし如来蔵には仏性とはニュアンスが少し違うものが示唆されていると、私は思っています。
サンスクリットでは、如来蔵は「タターガタ・ガルバ」といいます。
タターガタは、サンスクリット辞典によると「being in such a state or condition」あるいは「Buddha」で、
ここでは後者の意味になります。
漢訳語では「如来」と漢訳することが多いでしょう。
ガルバは、「The womb, the belly」です。
これは一般には「子宮・胎児」という意味になります。
つまりタターガタ・ガルバは、サンスクリットでは属格限定複合語として「如来の胎児」、
もしくは所有複合語として「如来の胎児を有する (衆生)」あたりが妥当なものになると思います。
ところでガルバには「子宮・胎児」という両面の意味があります。
「ガルバ」という語にはそちらの意味が含意されていると思われますので、訳語としての「蔵」にも、
両面の意味があるのは当然です。
つまり如来蔵を単に仏性と訳してしまうと、「可能性の内在」の意味がクローズアップされる反面、
「成長する=修道論」の意味が欠落してしまう危険性があるのでしょう。
「仏性 (ブッダ・ダートゥ、あるいはブッダ・ゴートラ)」は成仏の「因」としての仏性が
我々に内在することを単に示すものであることに対し、「子宮・胎児」両面の意味を示す「如来蔵」は、
我々が「如来の胎児を有すること=仏性を持つ」であるとともに、
「如来の子宮に蔵されている存在である=自らが胎児として成長していく存在」ことをも示し、
修行の必要性・成長の必要性を喚起する点で、微妙なニュアンスの違いがあるのでは、と私は考えています。
【 主な文献案内 】
・平川彰編『如来蔵と大乗起信論』(春秋社)
・高崎直道『大乗仏典12 如来蔵系経典』 (中公文庫)
・『高崎直道著作集 1~9』(春秋社)
・高崎・河村・小川・中村『講座大乗仏教6 如来蔵思想』(春秋社)
・高崎直道『インド古典叢書 宝性論』(講談社)
・宇井伯壽『寶性論研究』(岩波書店)
・奥田慈應校訳 『勝鬘経 並 上宮義疏』(其中堂)
・花山信勝『勝鬘経義疏』(岩波文庫)
・国民文化研究会・聖徳太子研究会『勝鬘経義疏の現代語訳と研究 上・下』(大明堂)
・中村元/早島鏡正『勝鬘経義疏 維摩経義疏(抄)』 (中公クラシックス)
・早島鏡正『勝鬘経 勝鬘経義疏』(世界聖典刊行協会)
・中村元『現代語訳大乗仏典「維摩経」「勝鬘経」』(東京書籍)
・柏木弘雄『勝鬘夫人のさとり ―『勝鬘経』を読む』(春秋社)
・雲井昭善『勝鬘経』(仏典講座10、大蔵出版)
・高崎直道『楞伽経』(仏典講座17、大蔵出版)
如来蔵思想については、高崎直道博士の研究が極めて素晴らしく、また穏当なものです。
また、末木文美士博士や柏木弘雄博士などの著書・論文なども参考になります。
一方で、「如来蔵思想は仏教ではない」という立場の学者も存在しています。
その代表的な著書は以下のものです。
・袴谷憲昭『本覚思想批判』(大蔵出版)
・松本史朗『縁起と空 ~如来蔵思想批判~』(大蔵出版)
これらの著書の、とりわけ如来蔵思想を実在論として把握してしまう誤謬に関しては、
高崎博士等が批判的な言及をされておられます。
諸大乗経顕道無異 真如者亦無有相謂言説之極因言遣言
